桃栗三年柿八年このことわざは、果樹を植えたら、食べられる実がなるまでに相応の歳月を待たねばならないことから、、、、
何事も成就するまでに、それ相応の年月がかかるということをあらわしています。
ほかにも努力することの大切さを表した、勤勉に働いた人は三年で一人前、少しだけ努力した人は八年で一人前、普通の人は九年で一人前、努力しない人は十八年かかっても一人前になれないという意味もあるそうです。
すぐに結果を求めたがる人に対して、まずは地道な努力が大切であると言い聞かせる場合などに使われます。
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ご報告が遅れてしまいましたが、、、、、
2022年11月15日でレストランマノワは11周年を迎えました。
毎年恒例ですが、RさんとNさんにお送り頂くマグナムのシャンパーニュで、営業後にみんなで乾杯させて頂きました。
また、でっかい花束達やスコッチウイスキー、山形県の洋梨だったり、日本各地からのお祝い菓子や、数え切れない程のお祝いメールなど、、、
Yさん、たいとの感謝の念を込めて1枚撮ってみました。
改めてたくさんの方々の温かいご支援に支えられて、今日がある事に感謝致します。
桃や栗や柿が実る様に、11年間でマノワでは何が実になりこれからどこに向かって行くのか?を日々自問自答しております。
北海道森町に多くの方々のご協力の元、ジビエの解体場、食肉製品製造所、製菓製造場を今年から本格的に稼働させ、本来捨てられていたジビエや野菜などを持続的に循環する世界を今年実現しました。
常に言っておりますが、飲食業界に限った事ではありませんが、これから企業が存続して行くには、自分達だけの利益を考えるので無く、多くの視点から見て、行動して行かないと続けて行く事は不可能な時代に入っていると僕は考えております。
誰もが平等に時間があった、このコロナの3年間でどう考え、行動して来たかが問われる時代に入ったと考えております。
現在マノワでは、ふるさと納税事業も全国8ヵ所と協業しており、今後もさらに多くの方々がマノワを通して幸せになれる世界を作って参ります。
また、北海道森町にて、障害者雇用始め、様々な雇用の創出や、レストランマノワでの更なるお客様の満足感の向上に向けて努力して参りたいと思います。
11年の間に、リピートしてくださる素敵なお客様も増え、月日と共にお店の成長を感じる今日この頃です。
スタッフの成長は当たり前のことですが、、、、、
僕は、良いお店の雰囲気をつくる一番の要素は、主役であるお客様であると思っております。
素敵なお客様に囲まれて毎日充実した日々を送れていることに感謝しております。
11周年の当日は、特に告知していなかったのにもかかわらず、たくさんのお祝いのお品や、お言葉を、たくさんの方々から頂戴致しました。
このブログを読んで下さる、全ての方々、また、スマホや、このブログを見てない、ずーと昔から、僕を子供のように育てて下さった、僕にとっては、東京のお母さん達、お父さん達、、、、!
本当にありがとうございます!
そして、これからも末永くよろしくお願い申し上げます。
改めて、数え切れない数々の方々に支えられて、今日を生きていると本当に思います!
改めて感謝申し上げます!
最近では、自分より若い世代がほとんどで、面接をする時、、、、
【何故飲食業を目指したんですか?】
って言う質問を多々される事があるので、その辺も含めて、たまには真面目に過去の自分の投稿を引用してブログを書きます!
山梨県にお住まいの方は、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、僕は男ばっかりの3兄弟の次男なのですが、幼少期山梨県の芦安村って言う、人口300人位の過疎地で高校生まで育ちました!
登山をやられる方はご存知かもしれませんが、日本で富士山の次に標高の高い山北岳(3193m)があるのが、僕の実家のある芦安村なんです。また、当時父親はその北岳の山小屋(御池小屋)を経営しておりました。
今はいろいろな街が合併して、山梨県南アルプス市芦安っていう場所になっております。
中学校まではその、芦安村の中にある、1学年7人しかいない環境で芦安保育園から芦安中学校迄の12年間を過ごし、、、
ちなみに中学校の全校生徒で、20人くらい、小学校の6学年でも30人くらいしかおらず、日本の中ではトップクラスの小さなコミュニティの中で生きておりました!
そんな、幼少期の頃から、芦安村に引っ越すまで、東京で服飾の世界で生きていて、世界規模で戦っていた両親は【大きな世界を見なさい】と常々僕ら3兄弟に言っておりました!
当時、そんな小さな世界で育った僕は、そんな両親の話には全く耳を傾けず、反抗期もあり、特に、父親とは、取っ組み合いの喧嘩って言うか、テレビを親父に投げて、次の日にはサハラ砂漠しか映らなくなったり、、、、
田舎では必需品の灯油ストーブを蹴ってボヤ騒ぎを起こしたり、400ccのバイクを改造しまくって、山々にこだまするくらい爆音で走り回ったりと、両親にとって決して良い息子では無かった様に思います。
僕は男ばっかの3兄弟の真ん中なのですが、兄貴はとっても優秀で、その次男の僕はとっても問題児だったと、今でこそ自覚しております(笑)
今もそのままなのですが(笑)とても胸を張って良い息子でした!って言える人生は歩んで無かった様に思います!
僕が高校を卒業して、東京に出て行ったら、田舎の方々から芦安村が静かになったって言われたもんです(笑)
そんな田舎時代、母親が専業主婦だった事もあり、夕食は毎日母親の手料理で育って来ました。ただ、家族5人だけで、夕食を食べた事はほとんどなく、近所のおじさんや、おばちゃん達が必ず、一緒に夕食を食べるという、大家族のような毎日を過ごしておりました。
なので、うちの母親は毎日10人前くらいの夕食を用意しておりました(笑)そんな、大人たちと一緒に食事をすると、子供ながらに、大人と一緒に会話をしたくなり、小さな頃からおしゃべりな、こんな僕の性格が出来上がった様に思います!
フランスに住んだり、アジアのいろいろな国行ったりと、今まで世界中いろいろな場所に行きましたが、例え言語が通じなくても何とか生きていける気がするのも、こーいった家庭環境があったからだと思います!
しかも、今まで、誰と喋っても緊張したことが無いのも、こーんな幼少期があったからだと思います!
飲食の世界に入った事も、自然の流れなのか?、、、、
父親が非常に食にはうるさく、田舎なので家の裏には大きな畑があり、自給自足とまでは行きませんが、家族で食べる野菜なんかは大抵育てていたように思います!
子供時代、ほぼ100%母親の手料理だったので、高校生になって、バイクの免許をとって、自分でバイトして、1番初めに食べたかったのは、毎日CMで流れていた、当時390円だった、ガストの目玉焼きハンバーグでした(笑)
そのくらい、化学調味料とかには無縁な食生活を高校生まで過ごしておりました。これが、いかに贅沢な事だったか、今では本当に感謝しておりますが、当時は周りの友達達の家庭が、ファミレスにいくのを羨ましく思っておりました。
そーんな、山の中に住んでいたもので、幼い頃は父親と共に、春には山菜獲り、夏には毛針を作ってイワナ釣り、秋にはキノコ狩り、冬には鹿などの狩猟っていう感じで自然と共に生きておりました!
今はこーして、東京のど真ん中で過ごしておりますが、僕の中のルーツはそんな芦安村にあるんだと思っております!
小さな頃、ご飯粒1粒残しても父親に怒られるような食生活を送っていた僕も、この、東京っていう、形あるものと、形ないものに溢れ、時間の流れの速さや物の価値観が全く違う環境で毎日を送っていて、大切な何かを忘れそうになることもありますが、これからも、自分を見失わないよう、日々努力して行きたいと強く思います!
山梨県の人口300人位しかいない、芦安村で高校迄育ち、両親とはたくさん喧嘩して、田舎を出る時は、、、
【こんな田舎に二度と戻って来るかよ!】
って暴言吐いて、18歳の時に、憧れていた東京に出て来たのに、今では僕も人の親になり、両親のありがたみをとっても感じております。
その後、辻調理師専門学校のフランス校行って、杉本都香咲先生はじめとする、今も続く様々な恩師と出会ったものの、、、、
そのフランス校時代には、辻調理師専門学校の伝説を作る程のたくさん迷惑を先生方にかけて(笑)フランスで研修し、、、、
渋々20歳に東京に戻って来て、、、、、
代官山のラブレーの山田さんから、フランス料理のいろはを学びました。
その山田さんは今年突然星になり、僕自身もこれからの人生をしっかりと考えるべきだと強く思いました。
しばらくの間何も考えられない日々がありましたが、ラブレーの山田さんからの卒業生は数え切れない程おりますが、残された僕ら卒業生は山田さんから教えて頂いた多くの想いを後輩たちに引き継いで行きたいと、、、
山田学校卒業生の先輩方と朝まで一緒にお酒を飲んだ事を忘れずに、強く生きて行こうと思いました。
いつの間にやら、山梨県の田舎で過ごした時間より、東京で暮らしている時間の方が長くなりましたが、人って成長しても、幼少期に過ごした時間、親が僕に注いてくれたたくさんの愛情、恩師や大切な仲間たちと過ごした時間こそが、今の自分のベースになっていると最近よく思います。
そんな環境の中育ててくれた、両親には感謝しか無いと感じております。
東京で生活しているとその当たり前だと思っていた、両親からの、無償で、果てしなく注いで貰った幼少期の愛情って物がとっても大切で、、、、、、
そんな最も大切だと思う、無償の愛が、誰もが当たり前に貰っている物じゃ無い事を、最近の若者達と生活してよく思います。
僕も人の親となり、最近思うことは、僕の今の感受性を育ててくれた、あの芦安村で過ごした環境は、何にも変えられない大切な空間と時間だったんだと感じており、自分の息子にも同じ以上な事が出来るか?って毎日悩んだりします!
ミスチルも言ってましたが、愛情って言う型の無い物を伝えるのはいつも困難だと、、、、
でも僕はそれ以上に、それを感じる事の出来る感受性が育つ環境が、僕の幼少期に芦安村にあったと言う事が大切だったんだと思います。
そして、、、
東京でサービスの仕事をしていると、20歳の頃から、お店にご来店頂き、休みの日に様々な所に、連れていって下さる、常連様も非常に多く、、、、
山梨県の田舎から出て来た、僕を、息子の様に、育てて下さった、多くの、常連様!
その全ての環境に、言葉に出来ない程、感謝しております。
マノワ 12年目も、フランス料理、はじめた頃から変わらない、、、
【最高のお料理を最高のサービスで】
の究極の目標を目指して、スタッフ一同、更に素晴らしいお店作りをして行きたいと思います。
新しい事に常にチャレンジし、新しい人との出会いが何よりの、自分の成長に繋がる事だと、心より思います!これからも、小さな男にならないよう、いろいろな事にチャレンジして行きたいと思います!
数え切れない、大切な方々の助けがあって、レストラン マノワは11周年を迎えることが出来ました。これからも、スタッフ一同、さらに良い空気感を求めて、良いレストランを作って行きたいと思います!
今年の春に常連様とうちの息子や子供達を誘って、北海道の函館にシャルドネの苗木を植樹しました。
僕が常に言っている、、、
食は文化
になる様に、これからも次の世代を育てて生きたいと考えており、また常連様とは、これからも一緒に楽しく人生を過ごして行きたいと考えております。
ちなみに、桃栗三年柿八年には、続きがあります!地域などによって、さまざまなパターンがありますが、、、、
その一例としては、「梨の馬鹿目が十八年」「柚子は大馬鹿十八年」「林檎にこにこ二十五年」 「梅は酸い酸い十三年」など。
さらに、果物ではない表現が続くパターンもあるそうで、、、、、
「女房の不作は六十年」「亭主の不作はこれまた一生 」というものもあります。
人間が一人前になるまでを表しているそうで、女房は60年でやっと一人前になり、亭主は一生成長途中だなんて、なんとも考えさせられます。
武者小路実篤は、著書『武者小路実篤詩集』の中にある詩のなかで、、、、
「桃栗三年柿八年、達磨は九年で俺は一生」と表現しました。
僕も、マノワも、自分自身が実るには一生かかり、生涯修行だと思います。
先はとても長い道のりになるかもしれませんが、まずは種を撒き続ける事が大切なんだと思います。
全ては、、、、
マノワにかかわる全ての方々が、持続的に幸せが続く世界を作って生きたいと考えております。
まー大きな事言ってますが、本当は、僕は多くの常連様と一緒に歳を重ねて生きたいな?って単純に思っているだけなんです(笑)
12年目のマノワもよろしくお願い申し上げます。
「桃栗三年柿八年、達磨は九年で俺は一生」
僕は一生、僕なんだと思います。
終わり!